ドイツ・ブンデスリーガ・マインツのキャプテン、ユリアン・バウムガルトリンガー(14番)がバイヤー・レバークーゼンへ移籍。
ユリアンは、1860ミュンヘン・ユース時代の教え子だ。
マインツと言えば、日本代表の武藤選手が所属するクラブだ。
2013年、俺は、ドイツへ旅をしユリアンに再会した。
俺は、フランクフルト vs シュツットガルト を観戦し、試合後、フランクフルトの中心街にある和食屋さんで、教え子のシュテファン・アイグナー(左、フランクフルト16番)とユリアン・バウムガルトリンガー(右、マインツ14番、オーストリア代表)と夕食を共にした。
2012年、ドイツでブンデスリーガ、ホッフェンハイム vs マインツ を観戦した時のことだ。
その目的は、当時ホッフェンハイム所属だった教え子、ファビアン・ジョンソン(現ボルシアMG、USA代表)の試合を観るためだった。
しかし、そこで嬉しい俺へのサプライズが起こった。
スタジアムの電光掲示板にメンバーが発表された時に知った事実。
なんと、教え子のユリアンがマインツでプレーしていた。
もちろん、その瞬間まで全くノーチェックだった。
ユリアンは、その試合で素晴らしいプレーを見せ、マンオブザマッチにまで選出され試合後テレビインタビューを受けた。
試合後、ユリアンは、俺がスタンドにいるのに気づいた。
テレビのインタビューを終えたユリアンは、スタンドの俺のところまで、わざわざ上がって来てくれた。
俺の周囲にいた、ドイツ人サポーターたちが驚いていた。
そりゃそうだ。
ブンデスリーガのスターが、スタンドにいたアジア人に寄ってきたのだから。
ここはドイツだ。
ユリアンは、オーストリア生まれ。
ザルツブルグ出身の彼は、13歳の時にTSV1860ミュンヘンに移籍してきた。
彼は、クラブが提携するミュンヘン市内のホストファミーリーで生活していた。
当時、クリクリの天然パーマで、目は真ん丸で大きい可愛らしい少年だった。
今、ブンデスリーガとしてプレーしていても、表情は昔と変わらない。
ユリアンは、当時、他の選手同様、能力のあるタレントだった。
しかし、TSV1860ミュンヘン内の有望選手たちの中では、トップ中のトップではなかった。
だから、俺は、彼がプロ選手になれるかは未知数だと思っていた。
ユリアンは、TSV1860ミュンヘンでユースからトップチームへ上がりプロ選手となった。
しかし、出場機会をほとんど得ることが出来なかった。
その為、彼は、出場機会を求めて、自分の育ったミュンヘンを離れ、生まれ故郷オーストリアのウィーンにあるプロクラブに移籍。
そこで試合に出場し、経験を積み、再びドイツ・ブンデスリーガに戻ってきたのだ。
2012年、ヴォルフスブルグで1860ミュンヘン・ユース時代の教え子たちと夕飯に行った際、クリスチャン・トレーシュ(15番、元ドイツ代表)、マルセル・シェーファー(4番、元ドイツ代表)らも、ユリアンの成長とブンデスリーガでの活躍を素晴らしいと賞賛していた。
ユリアンがプレーしているマインツは、フランクフルトの隣町。
フランクフルトから車で30~40分程だろうか。
だから、フランクフルトでシュテファンと食事へ行く話になった際、ユリアンも誘っていた。
夕食を共にした、フランクフルトのシュテファン・アイグナーは、子供の頃から天才肌だった。
逆に、ユリアンは、性格的に真面目で与えられた役割をきちんとこなしていくタイプだった。
2012年、ユリアンの試合を見たとき、マインツのボランチとして彼が中心的にプレーしている事に驚いた。
とても嬉しかった。
2013年は、大怪我をして手術をし、食事の時はまだリハビリ中だった。
ユリアンは、プロになれるかどうか判らないタレントだった。
それは、ユース時代指導した俺の見方だけでなく、1860の現育成部長もユリアンに対して同じことを言っていた。
ユリアンは、1860ミュンヘンのユースを離れてから、かなりの時間が経つが、その間に、本当に苦労し、努力したんだと思う。
そうでなければ、ブンデスリーガで、今の立ち位置は確立できない。
ユリアンは、夕食にプレゼントを持参してくれた。
彼のマインツのユニフォームだ。
そして、ユニフォームに、 『 俺のコーチ、タケオへ 』 とサインしてくれた。
もう、彼と離れて約10年が経つ。
今も尚、コーチと呼んでくれる教え子に感謝。
ユリアンの今後の活躍を願い、期待している。