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9人の乙女、南樺太(現サハリン)の歴史

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日本最北端の稚内市・宗谷岬で日本の歴史に触れた。

 

 

 

これは、旧海軍望楼。
1902(明治35)年、旧日本海軍によって建築された建物。

宗谷岬を下に眺める、丘の上にある。
日露戦争でロシアのバルチック艦隊の動きを監視する任務があった。
太平洋戦争では、対潜水艦監視基地として機能した施設。
実際に利用されていた監視塔の場所から海を眺める。

 

 

 

キャンプをした稚内公園内に、いくつかの石碑があった。

その内の一つに刻まれていた言葉。
『 皆さん、これが最後です。さようなら。さようなら 』

 

 

「 この碑は、終戦時、樺太(からふと)の真岡(現・サハリン)郵便局で通信業務を死守しようとした9人の女性の慰霊のために建てられたものです。北緯50度戦でソ連と国境に接していた樺太では、1945(昭和20)年8月、ソ連軍の不意の攻撃を受け40年間にわたる国境の静寂が破られました。島民の緊急疎開が開始される中、戦火は真岡の町にも広がり、窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々と迫る身の危険の中、真岡郵便局の電話交換手は最後まで交換台に向かいましたが、 『 皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら、、、』 の言葉を残し、青酸カリを飲み自らの命を絶ちました。終戦5日後、8月20日のことでした。」

 

 

ロシアとの国境、日本最北端の地、稚内に滞在し、自分が知らなかった日本の歴史を知った。

南樺太(現・サハリン島)は、日露戦争後、日本の領土だった。
太平洋戦争時、約42万人もの日本人が生活していた。
1945年終戦間際の8月9日に、ソビエト軍は南樺太へ侵攻した。
8月15日、日本は終戦を迎えたが、通信障害により、南樺太の陸軍樺太師団の兵士達は、終戦を知らなかった。
この時、南樺太の日本軍へ指令を出していたのは、北海道の札幌第五方面軍。
札幌からの指令は、戦争を終えたにも関らず 『 南樺太をソビエト軍から死守せよ 』 だった。
それは、ソビエト共産党書記長のスターリンが、アメリカのトルーマン大統領に、北海道の約北半分をソビエト領にしたいと密談をしかけていたからだ。
しかし、ゆくゆく、トルーマンは拒否し、北海道をマッカーサー将軍の手にゆだねようとしていた。
それを知らない南樺太の陸軍樺太師団は、樺太を死守する為に戦闘を続けた。
大本営が札幌第五方面軍に即座の停戦を指示し、陸軍樺太師団へと伝達され、終戦7日後の8月22日、やっと樺太でも終戦を迎えた。

 

私は、8月15日が終戦だと思っていた。
しかし、南樺太では、8月15日以後も戦争が続いていた。
今回の旅で触れたこの歴史は、恥ずかしながら全く知らぬ歴史だった。

 

今回の旅は、9人の乙女の話を知り、そこから日本の終戦について学ぶ機会になった。
戦争に触れた。
胸が熱くなる、悲しい現実がそこにはあった。

旅をし、色んな土地へ行くと、その土地に触れる。
人、土地に触れることで、新しい発見がある。
旅は、新しい学びの時間にもなる。

自分なりに、良い旅をしたと思う。

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