News & Blog

J1リーグ・湘南ベルマーレの小湊さん

カテゴリー:

今朝(6/1)の信濃毎日新聞に長野県出身・小湊先輩の記事が掲載されました。

 

image

是非、ご覧下さい。

 

 

俺は、ドイツにいた頃から、『 いつの日か、故郷・長野県に戻り、地元の子ども達に指導をする 』 と言い続けてきた。
それは、自分の育った長野県が、サッカー後進地域だったから。
俺は、子どもの頃から、全日本少年サッカー大会、全国高校総体、国民体育大会に出場した。
しかし、全国大会では、いつも悔しい思いばかりをしてきた。
だから、いつの日か指導者として、長野県の子供たちにサッカー指導をしたいと思ってきた。
それが、俺がサッカー指導者になろうと思った理由だ。

 

指導者として進むには、学びが必要だった。
だから、俺はドイツへ渡り、国立ケルン体育大学でサッカー指導のベースを学んだ。
その後、ブンデスリーガ・TSV1860ミュンヘン、Jリーグ・湘南ベルマーレで育成部門のコーチとして働いた。
プロクラブでチームを受け持ち、実地の経験を積み重ねた。
44歳になった今、自分の歩んできた道のりを振り返れば、TSV1860ミュンヘンと湘南ベルマーレでの仕事は、自分の人生の中で修行の時間だった。
その後、俺は、37歳で長野県へ戻ることを決めた。

俺は、サッカー指導者人生、プロクラブで働いていれば、いつ、何処へ行くかなんて分からないと思っている。
いつの日か、また、ドイツへ戻るかもしれないし、Jリーグクラブで仕事をしていれば、日本全国何処へ行くかは分からない。
37歳の時、心の中で、今、このタイミングで長野へ戻らなければ、一生戻らないかもしれないと直感的に思った。
かなり考えた上、当時の湘南ベルマーレ真壁社長(現会長)、そして、現湘南ベルマーレ監督の曺先輩に話をし、長野へ戻る事を決めた。

俺は、長野県松本市出身で、北アルプスが目の前に見える故郷・松本市でサッカースクールを立ち上げようと思っていた。
しかし、高校卒業後、大学進学を機に長野県を離れて約20年。
俺は、当時の長野県の事が全く分かっていなかった。
そのタイミングで、長野県内のクラブ、松本山雅FCとAC長野パルセイロ、そして、複数の県外のJリーグクラブからお話を頂いた。
条件から見れば、県外のJリーグクラブからの話が一番良かった。
しかし、俺は、自分の想いを尊重して、長野県へ戻ることを決めた。

その同じタイミングで、AC長野パルセイロで働いていた小湊さんは、俺を熱心に誘ってくれた。
『 タケオは、松本出身だけど、長野県へ戻るなら、俺達と長野市で一緒にやって欲しい。それも長野県サッカー界の為になる! 』
約6年前、小湊先輩に会い、彼に言われた熱い言葉を今でもはっきりと覚えているし、心に秘めている。
その言葉と、彼の熱意に引かれ、俺は、AC長野パルセイロへ行くことを決めた。

AC長野パルセイロは、俺が国民体育大会に出場した際、長野県選抜チームでお世話になった恩師が作ったクラブだ。
皆、サッカー後進地域の長野県、地域サッカー界発展の為に尽力していた。
振り返れば、あの時、小湊先輩の熱い誘いが無ければ、俺は長野市へは来ていなかっただろう。
もしそうなっていれば、今、俺が運営するドイツサッカースクールは、長野市には無いと思う。

 

今季から、小湊先輩は、湘南ベルマーレでスカウト部長をし、新しい人材を探し発掘している。
そして、ユースコーチも兼務している。
丁度、俺が指導していた当時小学生の教え子達や、スカウティングをして獲得してきた子達を、今、小湊さんが指導している。

 

image

おまけに、一人は(写真右)、先日、高校3年生ながらプロ契約をし、現在、ナビスコカップに出場し、Jリーグでもメンバー入りしている。
先日、小湊先輩から電話をもらい、俺が関った子供たちとグラウンド上で、俺の話で盛り上がったと言われた。
高校生になった教え子は、『湘南ベルマーレで沢山のコーチに教わったが、一番怖かったのは西村コーチでした 』 と言っていたらしい。
もっと褒める良い話は無いのか? と思ったが、思わず笑ってしまった。
俺の教え子を、今、小湊さんが指導しているとは、不思議なご縁だ。

小湊さんは先輩だが、同志と言える仲間だ。
いつの日か、また、信頼する小湊先輩と一緒に仕事をする日は必ずくると思う。
小湊先輩の奮闘は、俺にとって大きな刺激とエネルギーになっている。

 

image

ページの先頭へ戻る